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宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。 == 歴史 == === 建国期 === 宋を建国する劉裕は東晋北府の劉牢之配下の参軍であったが、孫恩の乱鎮圧で功績を立てて台頭する〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P135〕。403年12月、東晋領の荊州に基盤を置く西府軍を握る桓玄が安帝を廃して帝位に即位し、楚を建国した〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P108〕。そして桓玄により北府軍団は圧迫されて劉牢之は憤死し〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P134〕〔、これに憤激した北府軍団は劉裕を擁して結集し404年3月、建威将軍だった劉裕は反撃して最終的に蜀に逃れる桓玄を敗死させた〔〔。 劉裕は安帝を復位させ〔、車騎将軍として実権を握った〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P109〕。劉裕は積極的に外征を行い、410年2月には南燕を滅ぼし〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P136〕、南燕皇帝慕容超を処刑した〔。だが劉裕の留守を衝いて、孫恩の残党が水路から建康に迫って何無忌や劉毅の東晋軍を破ったため、劉裕は迅速に帰還して石頭において残党軍を破り、411年には広東に逃れていた残党軍を殲滅した〔。 また416年には後秦を攻めて洛陽を奪取し、さらに西進して417年には長安を攻め落として後秦を滅ぼした〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P117〕〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P138〕。ただこの際にも建康の留守を任せていた参謀の劉穆之が急死したため、江南に不測の事態が起きる事を恐れた劉裕は建康に帰還し、奪った領土も大半が華北の異民族政権に奪取される事になった〔。 とはいえ、これらの功績を背景にして劉裕は安帝を殺害し、新帝に弟の恭帝を擁立した。そして420年に劉裕(高祖武帝)は恭帝から禅譲を受けて、宋王朝を開き、劉裕は武帝となった〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P141〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宋 (南朝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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